16.お母さん・お父さんへ−A

 そのため、ではどうしたら良いのでしょうか? 1つ1つ具体的に考えてみましょう。特別なことは何もありません。昔の人がしてきたこと、親から子へ、子から孫へと代々と引き継がれてきていたはずのことばかりです。こんな判りきったことを改めて言われると気分を害される方もいらっしゃると思います。でも、改めて言わなければならない状況であることをお判り下さい。
 よくお母さん方は「アレルギーがあってあれも食べちゃダメ、これも食べちゃダメと言うとストレスになって心が歪んでしまう」とおっしゃいます。でも、それは間違いです。確かに、アレルギーがストレスになるでしょう。しかし、それが“心”を歪ませてしまうためにはそれだけでは不十分です。ストレスは生きていく上では必要なものなのです。生きていてストレスが全然無い人なんていないのです。ストレスが“心”を歪ませてしまうためには本人を“孤立”させるのが一番です。「自分達の生活が大変(外食も出来ない、総て手作りにしなければいけない、しょっちゅう病院にかかる。お金がかかるなど)なのはお前の所為だ」と本人の前で言い、本人の食べられないものを本人の目の前で「こんな美味しいものを食べられないなんて可哀想ね」と言いながら食べ、「痒いのも状態がひどいのもお前のことなんだから我慢しなさい。お母さんは知りません!」と言って放っておけばイチコロです。
 この仕事をしていて、一番感じることは「この親は本当に子どもの事を愛しているのだろうか?」という疑問です。それは重度の障害者や難病に冒された仲間達と活動してきた時にも感じていたことです。

1.人生の先輩として、子ども達の“手本”となって下さい!
2.お母さん・お父さんの笑顔でお子さんの“アレルギー”が軽減します
3.子育ての目標は“自律”した子! 子どもの人生のレールを引かないで下さい! 
4.基本的に“食事”には手を抜かないで下さい! (楽しく、感謝の気持ちを忘れずに)
5.“可哀想な子”・“特別な子”にしないで下さい!
6.“他人の痛み”、“心の痛み”の判る子にして下さい!
7.失敗を恐れず、額に汗することを喜べる子に育てて下さい!
8.“幸福”の質・価値基準の変更と実践を
1.人生の先輩として、子ども達の“手本”となって下さい!

 「子どもは親や先生(=大人)の言うことは聴かないけれど、親や先生のしていることはよく見ている」とは、以前人気のあったドラマの中での台詞です。私は、それは正論だと思っています。ここ何年か低年齢者による凄惨な事件が多発し、現代の若者に対する印象として「すぐ切れる!」とか「何を考えているのか判らない!」とか「マナーが悪い!」等々の声をよく聞きます。確かに今の子ども達の多くはすぐ「ムカツクー!」とか「ダルーイ!」と言い、結果の早く出ることばかり追い求めています。失敗すること、額に汗することを恥ずかしいこと、カッコ悪いことと思っているようです。集団で行動することが殆どで、辺り構わず大声で話したり、ゴミを捨てているのもよく見かけます。又、他人に対して自分の考えをはっきりと言わず、表と裏を上手に使い分けます。 しかし、これらのことは子どもだけに限ったことでしょうか? 偉そうに言っている私達大人も子ども達から見れば殆ど評価するに値しない程度にしか思われていないようです。
 まず、子ども達が私達大人(=両親を含め)に失望する時を書いてみます。あなたも以前は子どもだった時代があったのですから、子どもの目で見た親の嫌なところ、大人の嫌なところは十分に判っているはずですから、概ね納得出来るはずです。

@弱いもの苛め−私の店の前には横断歩道があります。近くには市営住宅やお年寄りの施設があります。以前には無認可の保育所もありました。当然、小さい子ども達やお年寄り、時には視力障害者の方も渡ります。しかし、老若男女問わず、一端停止して渡らせてあげる人は20〜30台に1台あるかどうかです。ご自分の子どもや孫と同じ年頃の子どもが手を上げて“助け”を待っているのです。子ども達は「大人は自分達を守ってくれるものなのだ」と教えられ、信じようとしているのです。それを、却ってクラクションを鳴らし、脅かしながら通り過ぎていく大人達は何を考えているのでしょうか? 又、自分の親と同じ年頃の方がいつまでも渡れなくて困っているのです。自分の子どもや親が同じ目に合っていると思ったらそんなことができるのでしょうか? 横断歩道とはどういうところでしょうか? 運転する者としてはそこにいる人に対してどうしなければならなかったでしょうか? 「車」という武器を使って、弱いものを苛める様を見て、子ども達が自分の親を尊敬できるでしょうか? 
 又、最近増えているのが“幼児虐待”です。「“躾”と称して自分の憂さ晴らしを、何も抵抗の出来ない我が子でする」。これは、躾でも教育でもありません。単なる弱いもの苛めであり、暴力であり、犯罪です。現在の“幼児虐待”をしている人達の殆どが幼い頃に“虐待”を受けた人達だと言われています。自分が受けた“心の傷”が癒されないまま大人になった人達が、「自分はそんな親にはなりたくない!」と願いながらもその悪夢を繰り返してしまう。加害者である“親”は自分の都合の良いことだけは覚え、都合が悪いことは忘れてしまうようですが、子どもが受けた“傷”が継承されてしまうことを見ても、とても許されることではありません。
Aルールを守らない−信号の赤はどういう意味ですか? 信号が青はどういう意味ですか? 信号の黄色はどういう意味ですか? お子さんに聞いてみて下さい。お子さんはきっと判っていると思いますヨ。「赤は進んではダメ。黄色は止まる準備をする(やむを得ない場合のみ進む)。青は進んでも良いけれど、前が混雑していたら待っている」てネ。しかし、保育所や幼稚園、小学校の送り迎えの際やお買い物などでお出かけの時にそれをちゃんと実践している親がどれだけいるでしょう? 横断歩道のないところを渡る、横断歩道のあるところでもまだ信号が赤なのに渡ってしまい、保育所などで「赤は渡ってはいけません」と教えられている子ども達が悩み、困っているのに母親は「早く渡りなさい! グズグズしないの。お母さんは忙しいんだから!」と怒鳴る声。「忙しいから仕方がない?」 そんなことが言い訳になるでしょうか? そんな言い訳が通るのでしたら、何をしても言い訳が成り立ってしまいます。自転車で送るにしても、自家用車で送るにしても、ちゃんとマナーとルールを教えてあげて下さい。「誰が見ていなくても、自分とお天道様は見ている」とは昔の頑固おやじさんや人気漫画の主人公がよく言う言葉です。自分自身を鍛え、磨き、抑える“努力”は日常の中で学んでいくものです。お子さんが世の中や人生を見る眼がもうここで作られてしまいます。
 こうしたルール破りは社会的なものばかりでなく、家庭内の小さな約束事に対しても言えます。家族(特に子ども)との約束やルールを破ることは信用をなくします。更に、それを謝りもせず、それを指摘されて居直ってしまったり、逆切れするようでは救いようがありません。
B夫(又は妻)や他人の悪口を言う−人の悪口や陰口くらい聞いていて嫌なものはありません(人によっては“密の味”なのでしょうが)。それが、自分の好きな人であったり、知っている人だったら尚更です。その人を好きな自分まで否定されているような気分になってしまいます。そうした環境の中で育てられた場合、表面的には良い子であっても心の中には“傷”が出来てしまうと思います。こうした体験は、他人が信用できなくなったり、人と付き合うことが怖くなったりする“対人恐怖症”と無関係ではないと思っています。
C子どもを信用しない−あなたも以前は子どもだった時があったのですから、子どもの目で見た親の嫌なところ、大人の嫌なところは十分に判っているはずです。自分が親が喜ぶようにと一生懸命考えてしたことが誤解されて涙を流したことはありませんでしょうか? こうしたちょっとした切っ掛けが引き金になって自暴自棄になってしまうことがよくあります。親が子どものために苦労するのも涙を流すのもそれは当たり前だと思っています。それが逆になってしまっては子どもの拠り所がなくなってしまいます。
D親が面子・保身に固執する−我が子が犯罪を犯してしまった場合に、その親がどういう言動を取ったかでその親がどういう教育や躾、子どもと接して来たかが見て取れます。子どもも「自分が一番大切に思われているのか? 親は自分よりも親の立場や面子を大事にしているのか?」を実感しています。親を信用していない、親を尊敬していないからこそ親を泣かすことが出来るのだと思っています。子どもが未成年でも成人でも関係ありません。そう育ててしまった責任は免れません。まずは被害者に、次に子どもに謝り、責任を取らない限り、何も問題は解決しません。
E親の考えを子どもに押し付ける−子どもには子どもの“夢”や考えがあります。それは未熟であり、親からすればハラハラ、ドキドキもので、とても黙ってみていることは出来ないものかもしれません。でも、それにより失敗しても成功しても、それが我が子の財産になるのだと思います。親が“安全”というレールを引き、その中だけで生きてしまっている子ども達が一生涯何も問題が起こらずに済む(こんなことはまず100%ありえないと思っていますが)のならそれでも良いのかもしれません。しかし、それを体験しないまま大人になって、人生の壁に打ち合った時に、それを自分の力で解決できるか否かはそれまでの体験や経験がものを言うのではないでしょうか? バブルが弾け、「一流大学から一流企業へ進むことが人生の幸福を掴むこと」の構図も見事に崩れました。その“夢”を信じ、親に守られ、大切な青春時代を勉強だけに明け暮れてきた人が、今、リストラの恐怖から精神的に病んでしまっている現実は悲しいものがあります。私も(夜間でしたが)大学に行きました。それは自分の“夢”を実現するために必要だったからです。今、大学生の学力低下が問題になっています。学生側からしたら「教授や講師の先生方の教え方が悪いからだ!」、「あんなつまらない授業をしている大学側の問題だ!」と言っていますが、私は違うと思っています。「大学は自主的学問研究をするところ」です。教授や講師の先生方はそれをサポートするに過ぎないのです。何故なら、彼らは研究者であり、教える事を専門にしてきた教育者ではないからです。「自分で考え、必要な知識や情報を得、自分で判断して、結論を出す」。これが出来ない限り、大学に行く意味はありません。大学や企業の肩書きやブランド物を持つことがその人の評価になること自体馬鹿げていることですが、こうしたことをちゃんと教えていかない限り、悲しい人生の膜引き(=自殺)は無くならないと思います。
F“夢”が無い生き方−今日(平成13年8月1日)の朝日新聞に「21世紀に希望もてない中高生が約6割いて、地位や名誉、社会貢献よりも楽しんで生きることを一番に考えている」と載っていました。これは昨年の7月に日本(東京)、韓国(ソウル)、米国(ニューヨーク)、フランス(パリ)の4カ国の中学2年生と高校2年生の男女、各国約1000名に財団法人日本青少年研究所などが実施した調査の結果だそうだ。「21世紀は人類にとって希望に満ちた社会になるか?」の問いに、我が国では62%が「そうは思わない」と答え、米国では86%、韓国では71%、フランスでは64%が「そう思う」と答えたそうです。他の設問に対しても否定的な答えが多く、同研究所所長は「日本の若い人達は自分達が社会を作っているという自覚がないせいか、社会への不満が多く、夢や希望が持てない。最近は、偉くなると責任が大きくなり、自分の時間も少なくなると言って、地位や名誉を拒否する傾向も強くなってきた」と分析しているようですが、私は自分に自信がなく、(現実から)逃避しているだけに過ぎないと思っています。
 私は選挙の際の投票を休んだことがありません。それは、一国民としての権利(理屈っぽく言えば、長い時間、諸先輩方が闘い、勝ち取ってきた権利ですので無駄にしたくない)であり、又、責任と義務からでもあるのですが、日常的に様々な問題を感じていますので、政治に対して意思表示をする機会が“選挙”しかないからです。その機会を自ら捨てることは「どんな社会になろうと文句は言えない」と言うことになってしまいます。私は「常に文句を言って生きたい!」と思っています。棄権をする人達は「誰がなったって同じだから」とか「私達には関係ない。関心のある人達だけがすれば良いんじゃない?」と言います。しかし、社会と無関係のまま生きていくことは、人知れないまま、国籍の無い離れ小島にでも行って生きていかない限り不可能です。病気になれば保険も必要です。子どもが出来れば学校の問題も出てきます。「どんな社会になったって関係ない」と言うことが、如何に論理的なようで無責任極まりないこと、いい加減な屁理屈であることは明らかです。私の息子にももう選挙権があります。仕事の関係で日曜日も朝から夜も遅くまでの仕事です。でも、幼い頃から選挙に連れて行き、その結果(だいたい当選するような人には入れませんので、1割にも満たない勝率です)がどうであろうと、希望が持て無いような話はしてきませんでしたので、一応政治に関心を持ってくれているようです。今回も不在者投票をしてくれていました(さすが我が息子!)。若いのですから“夢”の無い生き方だけはして欲しくありません。そのためにも私達大人が“夢”を持ち続けて生きていかなけばと思います。
G子どもをいつまでも子ども扱いする−思い出して下さい。あなたのお子さんはテレビのアニメを見て涙ぐんだことはありませんでしたか? 私の息子は『名犬ジョリー』や『ムーミン』や『みなしごハッチ』を見ては涙ぐんでいました。今は成人して生意気なことを言うようになりましたが、あの時の純粋な我が子の顔を今でも忘れられません! それをいつまでも守りたいお気持ちは判ります。しかし、自然の摂理として「親は子どもよりも先に死」にます。子ども達は本来無垢の心を持っていました。それを、私達大人が汚して来てしまったのです。私達大人がもう少し心に余裕を持って子ども達と接していたら、子ども達もこんなにも追い込まれることは無かったのではないでしょうか? 
 凄惨な事件を起こすのは大人でもいます。分別の付く大人がする方が始末には終えません。最近では、特に大人(それも“男性”)による幼児虐待の記事が新聞を賑わしました。我が子が可愛くない親がいるなんて私には考えられません。又、くだらないことで喧嘩し、自分勝手な理屈で相手を殺してしまう。自分の欲望を満たすためなら他人の命のみならず、我が子の命さえも簡単に奪ってしまう。連続した保険金殺人事件がそのいい例です。エゴイズムの何ものでもありません。こんな大人達が子ども達に何を教えられると言うのでしょうか? 
  もう一度言います。マナーの悪い大人もどこにでもいます。駐車スペースがあるにも関わらず路上駐車や違法駐車する人。タバコや空き缶のポイ捨て。走っている車からゴミの入った袋が捨てられるのを何度目撃したことか! 家庭のゴミを駅や店前のゴミ箱に入れていく大人。使い終わった紙おむつ(とは名前だけで、紙が殆ど使われていないのはご存知だと思いますが)をそのままゴミ箱に入れていく母親。「○○はご遠慮下さい!」の張り紙の前で堂々と禁止された行為をする大人。我が子の幼稚園や保育園の送迎の際に、我が子を自転車の後ろに乗せながら信号無視をする母親。運転時に我が子をひざに乗せて運転している父親。その隣にはちゃんとお母さんが乗っているのにです。私には「万一の時は我が子をエアークッションの代わりにして、自分だけは助かろうとしている」としか思えません。「皆もやっているから!」、「子どもが喜ぶから!」を言い訳にしているこれらの行為も、「自分さえ良ければ何をしても良い!」、「法律に違反しても見つかりさえしなければ良いんだ!」、「見つかっても罰則がなければ!」、「人に迷惑を掛けても、悪いことをしてもお金儲けをした方が得だ!」と子ども達に(意識的にしろ無意識的にしろ)教えている大人達の多いこの社会の中で、どうやって子ども達に明るい未来を約束出来るのでしょう。今こそ子ども達に人を信じて、助け合って、楽しく“夢”を持って、社会との関わり方、他人との関わり方において手本となるような生き方を示す必要があるのです。何も“聖人”になれと言っているのではありません。欠点もあり、失敗もし、弱さも持ち、でも一生懸命前向きに生きる姿勢、多くの困難にも挫けず闘い続ける姿勢を見せてあげて欲しいのです。子ども達に“夢”や“可能性”を信じさせてあげて欲しいのです。失敗しても、失敗しても、何度でもやり直せること、心疲れた時には帰るところ・受け入れてくれるところがあることをしっかりと伝えて欲しいのです。

2.お母さん・お父さんの笑顔でお子さんの“アレルギー”が軽減します!

 以前、ベストセラーとなりました『五体不満足』の著者 乙武洋匡オトタケヒロタダ)は「障害は不自由です。だけど、不幸ではありません」と言っています。そう言える乙武君は素晴らしい人だと思います。本人のそれまでのご努力は元より、ご両親の障害に対しての考え方や姿勢、生き方にも敬意を表したいと思います。ご両親の関わり方が今の彼の考え方の基本になっていると思うからです。
  学生時代、私は愛知県に拠点をおきます重度障害者の団体に関わっていました。この団体はとてもユニークで、重度障害者の団体でありながら自分達の生活を良くするためには自分達でデモはする(25年以上も前に)は、国鉄(現在のJR東海)に協力を断られながらも100人余りで新幹線に乗って京都旅行はするわで、その行動力は私達健常者と一般に言われている者(私達仲間内では障害者も健常者もありませんでした。ですから、当然ボランティアするのが健常者でボランティアされるのが障害者という考えもありませんでした。私は、初めの頃は運転免許も車もありませんでしたので、車椅子に乗った仲間によく乗せてもらっていました。これは、私がボランティアされて、車椅子の仲間が私にボランティアしたことになります。このように、誰かのためにお手伝いすることがボランティアであり、それは誰にでも出来るチャンスがあるもので、皆が共存していく上では最も必要なことだと今でも思っています)が押さえなければ何処までも暴走する(?)勢いがありました。そんな彼らのその前向きな生き方を支えていたのが、やはり前向きに必死に生きてきた母親達でした。学歴も無く、生活も裕福ではありませんでしたが、子どものために必死で生きていました。不条理なこととは必死にぶつかっていました。その姿が子どもである私の仲間達を障害者としてではなく、一人の人間として生きていこうとする、前向きで、確固たる意志を持った成人に育てたのです。
 お母さん! どんなに苦しくても、どんなに大変でも、お子さんの前では明るい、笑顔のお母さんでいて下さい(お父さん! 子どもの前で頑張るお母さんを支えてあげて下さい。お母さんはお父さんの理解と協力があればどんなことにも頑張れるはずです)。子どもはそれだけで頑張れるのです。心が落ち着くのです。お母さんの顔が暗かったり、イライラしていたりすると、それは自分の所為ではないかと不安になるのです。イライラするくらいならお子さんと「どうしたら良いのか」ぶつかった方が解決の道は見出せます。お母さんの考えを一生懸命話し、話しても判ってもらえない時は、一緒に泣けば良いんです。子どもはいくら幼くたって一人の人間として意見や考えをもっています。それを、ちゃんと認めながら話しをしていけば不安にはならないはずです。不安はストレスになります。ストレスは“アレルギー”を悪化させてしまいます。しかし、ストレスは全く無いと生きてはいかれないものなのです。私達には適度なストレスは必要なのです。ストレスに気持ちで負けないように、ストレスを楽しめるくらいの心のゆとりを持って、“アレルギー”でも乙武君と同じように言える子ども達がドンドン出て来て欲しいと願っております。
 しかし、そう言えるようになるには並大抵のことではないことも判っています。私は、学生時代「身体のハンディ障害にしてしまっているのは社会に責任がある。我が国の障害者は3つの不幸を背負わされている。1つ目は身体にハンディを持ってしまったこと2つ目はそのハンディをカバーするだけの社会基盤のない日本に生まれたこと3つ目は物質的には豊かでも精神的には貧しい現代に生まれたことだ!」と言ってきました。民主主義の歴史が浅く、物質文明の進んだ我が国では弱者と呼ばれる人達を支える精神基盤が乏しく、彼等を排除・排斥する傾向にすらあります。その表れが苛めであり、幼児虐待であり、通り魔殺人であるのです。私は、全て幼児期の親子関係が大きく影響していると思っています。“アレルギー”はその親子関係を見直し、保つ格好の材料になると思います。“アレルギー”のマイナスの面ばかり見ず、大いに生かすことも心がけてみましょうよ!

3.子育ても目標は“自律した子”。お子さんの人生のレールを引かないで下さい!

 最近の凄惨な事件を起こした犯人は「社会が悪い!」、「学校が悪い!」 、「親が悪い!」、「自分を振った相手が悪い!」とその全ての責任を自分以外のものになすり付けています。自分の取った行動に対して責任逃れをする最たる実例です。これは全て幼い時からの親子関係が原因していると思っています。親が子どもを盲愛・溺愛し過保護に育てた結果ではないでしょうか? 勉強さえしていれば全てを許していませんでしたか? 社会の一員・家族の一員としての役割を果たさせていましたか? 何もかもあなた達(親)がお膳立てをしたレールの上を生きることを強いていませんでしたか? 個性を否定(皆と同じを求める)し、周りとの関わりをも奪い(塾等でも競争を強いる)、失敗を許さず・認めず・尻拭いまでしてきませんでしたか? 子ども達に言い含められ、言い訳を認めてしまい、社会の一員としてのルールを教えてこなかったのではないですか? これでは自分自身に自信も持てず、社会性も判断能力も無くなってしまうでしょう。こんな責任逃れをする者ばかりになってしまったら社会は成り立ちません。ましてや、安全なんて確保出来る訳がありません。「一人で居る時は良い子なんだけど集団に入ると人が変わる!」と言うのは自律した人間でない証拠です。本当に自律した人間だったら他人が見ていようといまいと、一人でいようと集団でいようと「して良いことといけないことの区別はつく」はずです。周りの人達が間違ったことをしていたら止められれば尚良いですが、最低でも自分が加わらないように出来る筈です。
  では、自律した人間になるにはどうしたら良いのでしょう? 自分に自信を持つためにはどうしたら良いのでしょう?自分自身で判断するためにはどうしたら良いのでしょう?
 私の略歴のところでも書きました。自律という言葉。「自立の間違いじゃないの?」と思われるかも知れません。でも、自律で良いのです。私の持っている国語辞書によりますと「自立とは、自分以外のものの助けなしで、または支配は受けずに、自分の力で物事をやっていくこと。独立。ひとりだち」、「自律とは、自分の気ままを押さえ、または自分で立てた規範に従って、自分の事は自分でやっていくこと」と書かれています。
  我が国では特に経済的に独立しない限り一人前とは認められてきませんでした。「収入も無いくせに一人前の口利くな!」とは文字通り一人前扱いされない、子ども扱いを余儀なくされた人達が言われてきた言葉です。それは子どもは固より専業主婦の女性達も言われてきましたましてや、重度障害者はいくつになっても子ども扱いでした。私達は、現状では経済的な独立が困難な重度障害者が一人の人間として生きていく精神的基盤を探しました。それが自律と言う考え方でした。
  これは、アメリカで生まれたマイノリティームーブメント(少数派運動−大学における黒人をはじめとする差別撤廃運動から障害者も巻き込まれて拡大した)IL運動(Independent Living運動)の考え方であります。現実問題として
どんなに障害が重くても一人の人間である以上仕事が欲しい! お金が欲しい! 結婚がしたい! と思うのは当然のことです。現に、私の仲間達は寝たきりの状態であっても、もう20年くらいも前から仕事をしています。未だ私がいたときにバザーをして得た資金を基に会員のために『パソコン講座』を開き、そこの修了者に自宅でもできる仕事を与え、出来たもの(完成品ではない。大雑把な入力だけでOK!)を本部となる“作業所”に送ってもらい、それをそこで完成させてお客様に渡し代金を得て、関わった者にも分配していました。その当時から、まさに今私がしているようなことを彼らはしていたのです。国際会議の会長の選挙の時には立候補者の顔写真をコンピューターグラフィックスで会場のスクリーンに大写しする仕事を委託されたり、企業や教会等の会員名簿や顧客名簿等の作成を請け負っていました。彼らは条件さえ整えば就労出来ることを証明しています。しかし、そのような場が余りにも少なすぎるのです。その時に頼りになるのは年金と社会保障だけです。アメリカの社会保障法は日本のとは異なり(我が国のは障害別・職種別に細分化されている)「全ての人に適用され、必要な人に、必要な援助をする」と言うものでした。
  我が国でもこの4月から介護保険がスタートしました。うたい文句は立派だったのですが、前々から危惧されていたとおり内容はさっぱりでした。ケアーマネージャーやヘルパーの“質”の問題(資格取得と教育内容の不足)、保険料の問題、サービスの内容と料金の問題等々問題は山積みされています。しかし、ここではこれ以上の介護保険の問題には触れませんが、これによって「福祉が商売にされてしまった(=お金が無ければ必要な“サービス”さえ受けられなくなってしまった)!」と思っています。これで誰のための制度なのかがはっきり判ります。
  アメリカの場合は「ケアーの内容(着替え、歯磨き、トイレ、入浴、移動等々にどれだけの介助が必要か)を時間に換算し、現金を本人に払う」と言うところです。我が国の場合は本人はサービスを受けるだけです。このことにより何が変わるかと言うと、

@認証されたケアー分の給付金が支払われる。
Aこれを使うも使わないも本人の判断に委ねられる(=自分の努力で、生活費に回すこが出来る)。

の2つのことが大きいと思います。
  我が国の場合でも、今までのように行政から派遣されてきたヘルパーさんとは違ってきますので、もし派遣されたヘルパーさんが自分に合わなかった人だったら換えてもらうことが可能になったようです。自分のプライバシーに入ってこられるのです。信頼できないヘルパーさんに家の中のこと見せられますか? 自分達の全てをさらせますか?  決してヘルパーさんを選んでいるのではないですが、我が国では“プライバシー”に対する認識が薄い上に養成講座等の教育内容の中でもさほど取り上げられていません。よほど「ヘルパーになろうとしている人の中には悪い人はいない!」と信じ込んでいるかのようですが、ヘルパーさんも人間である以上様々な方がいらっしゃいます。ヘルパーになった動機もやる気も知識も技術も違うはずです。相手に気を使いながら(もっとひどければ“我慢”しながら)介助してもらうことがどういう意味を持つのか、今までの制度の主旨に反していなかったのか考えてみて下さい。今までは我慢しながらサービスを受けていた人が多かったのです。その点は“商売”になったのですから、嫌なら別のを選べると思いますので良かったとは思います。そうしなかったらこの制度自体もヘルパーの“質”自体も改善されていきません。
  私は何でもお金で割り切って問題を解決していくことは基本的には好きではありません。しかし、人が、人としての誇りを保ちながら生きていくためには、ある程度割り切らざるを得ない部分があると思っています。このアメリカの制度は「どんなに重度の障害者でも、自分の人生の主体者となれることを保障したもの」です。「自分の人生を決めるのに自分自身の考えを入れられ、自分自身の努力により変化も持たせられ、その結果については自分自身で負う」この方法は、ある面甘く、ある面で厳しい制度です。しかし、本人を育てる制度です。そして、その制度の内容を常に活性化させる仕組みになっていました。我が国の介護保険は本人(の意思)を対象とはしていませんので、ここまで求めるのは“酷”というものですネ。 
  このように、我が国は口で言うほど個性を求めませんし、自律した人間も求められません。学校にしても会社にしても組織は自己が無い人間の方が扱いやすいからです。考え直して下さい。教え直してあげて下さい。個々の命ほど重いものは無いのです。学校(=学歴)や会社よりもあなたの方が大事だと言ってあげて下さい。そして、自分自身に自信を持ち、自分の人生を周囲の人達の協力を受けながら自分の力で築き、その結果については自分で責任を負う生き方を教えてあげて下さい。何度も何度も失敗しても、人間は何度でもやり直せることを教えてあげてください。本人の失敗はアドバイスやサジェスションは与えても、親が手を出すことは止めて下さい。失敗が多ければ多いほど、そして乗り越えた困難が大きければ大きいほど自信となります。失敗を恐れて、困難に立ち向かわずして人間としての成長はありえません。「獅子は可愛い我が子を千尋の谷に落とし、そこから這い上がった子だけ育てる」と言いますが、ここまでは極端だとしても我が子を育てる上で必要なことのように思います。“アレルギーなんかに負けないで下さい! “アレルギーを言い訳にしない子に育ててあげて下さい!

4.基本的に“食事”には手を抜かないで下さい!

 多分、今のお母さん方にとっては一番苦手なのが“料理”ではないでしょうか? 苦手なものに毎日取り組まなければいけないとなると、そのストレスは大変なものだと思います。「特技や才能を生かす」ということとは違ってしまいますが、次の3つの点から努力して欲しいと思っています。1つ目は「安易に“苦手なもの”から逃げる口実を作って欲しくない」こと。2つ目は「お母さんの手料理ほど安全(ちゃんと意識と知識を持てばの話しですが)で、お母さんの愛情を伝えやすい媒体はない」と考えるからです。3つ目は「伝統食(=私達の身体が一番馴染んでいる食事=健康に生きられる食事)を引き継いでいくことは、子ども達の健康を守る上で重要」だからです。スーパーや生協に行けばわざわざ自分で作らなくても何でも揃っています。そして、子ども達もお母さんが苦労して作ったものよりも買って来たものの方が「美味しい!」と可愛くない意見を(遠慮なく)言います。お仕事をしていてもいなくても、それなりに忙しく疲れていますので、出来るなら「こうしたものが食べられるならどれほど楽か」とお思いでしょうが、ここで手を抜くと、そのツケがすぐに帰ってくることになります。
 東京にあるアレルギー食品店の老舗の1つである『グリーンファミリー』の倭さんに料理教室の講師をお願いした時に、倭さんは参加者のお母さんに質問しました。「料理を一番美味しくするものは何?」と。倭さんの答えは“愛情”でした。「その料理を食べてくれる家族の喜ぶ顔を思い浮かべながら作るのと、何も考えないで作るのとでは、同じ材料を使っても出来栄えは違う!」とはっきりおっしゃいました。そうなんです。お母さんはご家族に不安なものや健康を損なう怖れのあるものなどは食べさせたいとは思いませんよね。材料や調味料にも一応気を付けるでしょう? でも、スーパーや生協で売っている加工品は、あなたやあなたのご家族の喜ぶ顔や安全を思い描いて作っている訳では決してありません。その証拠が(濃くて脂っこい)“味付け”であり、“添加物の使用”だと思うのです。それは当然です。スーパーや生協だって企業なんですから“利益”を追求するのは当たり前のことなのです。そのためには誰もが「美味しい!」と感じる味付けにし、出来るだけ安く作って、出来るだけ日持ちさせるようにするのが一番の方法なのです。
 しかし、それでは“美味しさ”ってなんなのでしょうか? 野菜を好きで、サラダをよく食べる人の場合なら“ドレッシング”ではないでしょうか? 決して“野菜”の味ではないはずです。母親の愛情って何なのでしょうか?、なのですから、お子さんに、どうして売っているものと“味”が違うのかを教えてあげて下さい。そして、「お母さんの“味”が一番美味しい!」 

5. “可哀想な子”、“特別な子”にしないで下さい!

 殆どの“アレルギーっ子”が「何も食べられないで可哀想ね!」とか「美味しいものが食べられなくて可哀想ね!」と常に言われる生活の中で育てられています。誰からも同じことを言われ続ければ、本人も「自分は可哀想な子なんだ」と思い込んでしまうのも無理のないことです。言っている人は励ましのつもりなんでしょうけど、でも、その言葉が何のプラスになるでしょう? そんなことを本人に言ったところでどうなると言うのでしょうか? そんなことばかり言われていて前向きに生きる子になれるでしょうか? そんな一言が子ども達を傷つけ、内向的な子か攻撃的な子にしてしまうことに気が付かないのでしょうか? 
  私はそんな親の顔色を窺いながら生きている子ども達に「“アレルギー”のおまえがいるからこそこんな馬鹿なお母ちゃんでも少しは食べ物に気を付けるようになったんだヨ。おまえのお陰で家族全員が健康で生活できるようになるんだヨ。だから、お前は威張っていいんだ!」と言ってしまいます。“アレルギー”なんかに負けて欲しくない! 誰にでも一生の内には様々な試練が待ち構えています。大きいのもあれば小さいのもあります。いくつも続けてくる場合もあります。私は、“アレルギー”はそんな人生の“試練”の1つにしか過ぎないと思っております。こんなことぐらいで可哀想な子にしないで下さい。もっともっと大きな試練と闘っている子ども達は世界中には沢山いるのです。死の恐怖と闘っている子もいます。親や兄弟と一緒に暮らせない子も大勢います。他に食べられるものがあり、家族と一緒に生活できるだけでも幸せとは思えないでしょうか?

 前の“可哀想な子”と同じようなことになってしまいますが、“アレルギー”を理由に甘やかさないで欲しいと思います。社会の中で生きている以上多かれ少なかれ様々な困難に遭遇します。その度に“アレルギー”を言い訳にして現実から逃げてばかりいては問題の解決にならないからです。
又、“困難と同様、誰もがそれぞれに多かれ少なかれハンディを持って生きています。“アレルギー”もその1つにしか過ぎないのです。“アレルギー”だけが特別のものなのではありません。ご両親やご家族が我が子・我が兄弟姉妹・我が孫を特別な子にして、特別な人生を歩ませる必要はありません。周りの人達が何と言おうと、自分達だけは普通のとして関わり、育てることが大切だと思います。
  たった一度しか無い人生なんです。困難に堂々とぶつかって、大いに汗をかき、時には傷つき、時には怒り、時には泣き、又、時には他人の暖かさや優しさを感じて喜び、喜怒哀楽の一杯詰まった、充実した人生を歩んで欲しいと思います。

6. “他人の痛み”、“心の痛み”の判る子にして下さい!

 何度も書いてきました。「誰しも多かれ少なかれハンディを持っている!」と。人間も生物である以上、どんなに良い環境の中にいたとしても、生まれつき身体や精神にハンディを持ってしまう可能性は残念ながら0にはなりません。つまり、「ハンディを持ってしまうことはあるものの宿命」なのです。
  昔、生産力が低く、全ての人に食料が行き渡らないぐらいの時代には、残念ながら彼らは真っ先に命を奪われてました。それを肯定するつもりはありませんが、その当時としてはやむを得なかったのだと思います。歴史の中には、様々な理由により人減らしの事実が多く残っています。時には障害者だけでなく、老人や女子もその対象となっていました。ここ東北の山村でも、貧しさから労働力とはなりにくい女子が日常的に間引かれていました。「それらの子のども養のためにこけし(“子消し”からきたとの説もあり)を作った」とも言われています。そう考えれば“こけし”が東北に多いのも頷けます。
  今はこんなにも物質的には豊かになり、こんな悲しい歴史を繰り返さなくて済む時代です。もっともっと全ての人が守られ、大切にされなければならない時代です。誰もが健康のまま一生を終えることが無いのですから。誰もが歳を取れば否応なしに動けなくなり、時には病気や障害をもってしまうのですから。そうした人を地域の人や社会が支えるのは当然のことなのです。そのためには精神的に豊かな人間が増えていかなければ不可能です。そのための第一歩がこの他人の痛みが判るということなのです。 
  顔にひどいアトピー性皮膚炎が出ていたお子さんをお持ちのお母さんは経験されたことがあると思います。周囲の大人や子ども達の冷たい視線や言葉・態度に悔し涙を流し、「何で私の子だけが!」と、神様を恨んだこと。又、逆に、知らない人に温かい言葉を掛けられたり、子どもに接してもらえて嬉し涙を流したことも。その時の気持ちをいつまでも忘れないで、自分の子ども達には他の人をそんな目で見るようなことはさせないで下さい。“アレルギー”のお子さんをお持ちのお母さんは、自分の子どもの症状が改善されてしまうとその時の自分の心の痛みを忘れてしまいがちです。“アレルギー”は目に見えない部分の体質としては残ってしまいますが、目に見える部分の症状は正しい(食)生活を実現出来れば間違いなく良くなります。しかし、世の中には本人がいくら努力をしても変えられないハンディがいくらでもあります。どうぞ、他のハンディで悩まれ、苦しみ、悲しんでいる人達の痛みにも心遣ってあげて下さい。あなたが受けた温かさや優しさを、今度はあなたが優しさの発信者になってあげて下さい

7.失敗を恐れず、額に汗することを喜べる子に育てて下さい!

  今、若者を見ていると「かったるい」とか「みっともない」という言葉がよく聞かれます。一生懸命取り組んでも失敗することはいくらでもあります。又、反対に、何も努力しなくても結果の付いて来る時もあります。「だったら努力するなんて格好悪い!」って考えるのが普通なのかも知れません。しかし、「失敗は財産です!」。したらしただけの貯金が貯まります。それが経験です。これは「した人にしか得られない財産」です。
  失敗は経験と言う財産を増やしてもくれますが、失望・落胆という代償を支払わなければ増やせません。これが嫌であるがために誰もが(親も子も)避けてしまうのです。しかし、人生は短い様で長いもの。「人生、至るところに青山あり!」です。若いうちにいっぱいいっぱい経験しておくことは、大人になっていざと言う時に役立ちます。
  最近の凶悪犯罪の犯人の言いぐさに「受験に失敗したから」、「好きな人にふられたから」なんてものがありました。なんてくだらない理由で、簡単に人の命を奪ったものだと呆れ返ってしまいます。これでは、「受験に失敗したら、人生にも失敗したのと同じだ!」とか「人気のある子は殺されて当り前だ!」とか「ふるのが悪い!」と言うことが前提で話されてしまっています。
  あなたの人生のゴールはそんな簡単な、そんな低いところにあるのですか? もっと、もっと自分自身の手で切り開いて、未だ見ぬ世界に足を踏み入れてみたくはないのでしょうか? 誰の人生でもありません。あなた自身の人生です。一度や二度の失敗で、自らの手で、自らの人生にピリオドを打つことのないように。何があっても希望を失わず、常に周囲の人たちのことを気遣い、人と自分自身の人生を大切に出来る人になって欲しい。そのためにも、幼い頃から安全と言う敷かれたレールの上だけを歩くのではなく、自分で創意工夫しながら、失敗を重ねながら、それを1つ1つ乗り越えて生きて行って欲しいと思います。「強い人よりも、負けない人であれ!
 

※受験に失敗されたお子様をお持ちのご家族の皆様に
 去年、日本中が感動した「スキー・ジャンプ陣の“金メダル”獲得」から早1年が経ちました。しかし、去年の活躍はウソのように、今年はルールの改正もあって全員が苦しんでいるのを皆さんもお知りのことと思います。しかし、彼らは泣き言一つ言わず、もくもくと努力し続けています。私は原田さんが大好きです。あの失敗も、失敗の後に苦しみ続けながらも辞めずに飛びつづけてくれたこと。そして、あの大舞台でそれを打ち消すかのような感動のジャンプを見せてくれたこと。更に、その後に飛ぶ船木さんのジャンプを我がことのように必死に気遣っていたあの優しさに、今、思い出しても涙が出てきます。「失敗することは生きている以上仕方が無いんだ。大切なのはそこで腐らず、それをどう生かすかなんだ!」と教えられました。あの当時、心無い人達からの嫌がらせは大変なものだったそうです。そこから立ち上がり、生きる姿勢を教えて下さった原田さんには心から敬服しております。
 私も一浪しました。浪人時代は友人達の「予備校に行かないと来年も危ないよ!」の声を無視して高校のクラブ(バスケット)のコーチと、初級公務員受験のための通信教育(私は高校卒業後すぐに現場に入りたかったのです。そして、これを取っておけば知り合いの方の関係していた施設に雇ってもられることになっていたのです。しかし、この方が「子ども達と接する仕事をしたいのなら、自分自身をもう一度見つめなおしていらっしゃい。あなたの性格、あなたの考え方で子ども達の人生が左右されてしまうのだから!」と“進学”を勧められたのです)と、この一年間全て親に甘えられる環境ではありませんでしたのでアルバイト(自動車部品のメッキ工場)をしていました。高校時代にも対外試合の多かったクラブでしたので何かとお金がかかり、夏休み等にはアルバイト(夜中の12時まで営業していた八百屋さん)していました。2年目の受験は高校側の意見を無視して『希望大学1本』だけでした。ここしか行きたくなかったからです。初級公務員試験は無事合格し、厚生省・科学技術省・東京大学他7つ程のところから声を掛けていただきました。大学に落ちていれば今頃厚生省の役人になっていたかもしれません。そう考えると“人生”って面白いですね。
 大学に進んで、真っ先に気付いたのは「現役で来た子と回り道をして来た人(浪人以外にも他の大学を幾つか行って来た人、社会人になっていて改めて勉強したくなって来た人等が約半数近くいました)とでは物事の見方・考え方が全然違う!」ということでした。たった1年の違いでも「大人と子ども」程の差があったんです。
 どうぞ、この1年を無駄にさせないようにお話ししてあげて下さい。「受験の失敗」は「人生の失敗」ではありません。これを「人生の失敗」にしてしまうのは、これからの1年間をどう受け止め、どう使ったかにかかっているのです。私は「1浪」して良かったと思っています。それは、その1年で知り合えた人達に、バイト先との様々な交渉を一番年下の私にさせてくれたことで“勤労者”とか“労働”について勉強させてもらえたこと(組合活動にも興味が出た時でした)に、選択した大学、選択した人生にも納得し、満足しているからだと思います。
 ですから、受験に失敗すると「腫れ物にでも触る」に様々なことに敏感になって、オブラートにでも包むかのように接することは却って良い結果をもたらさないような気がするのです。この時間を使って、「自分がこれから何をしたいのか」、「そのためには何が必要(資格や知識や技術等)」で「今は何をしたら良いのか」を受験勉強の前にすべきだと思うのです。それが無い受験勉強は“ストレス”にしかならず、行き詰まった時に解決の道を捜しにくいと思うからです。それと、大学に過大な期待を掛けない方が無難です。目的が無くて大学に行っても、何の役にも立たない(“看板”をもらうことは出来ますが)からです。大学は“入る”ことが大切なのではありません。そこで“何”をするかが重要なのです。それは、そこが自ら研究するところだからです。

 余計なお話しをしてしまいました。この時期になりますとどうしても受験に失敗した子のことが気になってしまいます。この1年はお子さんの人生にとっては僅かな時間です。でも、後で考えるととても重要な時間となるはずです。受験勉強だけに明け暮れるのではなく、有意義に過ごさせてあげて下さい。応援しています。

8. “幸福”の質・価値基準の変更と実践を

  何をしても不満だらけの人がいます。又、逆に何にでも喜びを感じられる人がいます。どちらが幸せでしょう? あなたなら自分の子どもにはどちらの人間になって欲しいと思われるでしょうか?
 私は生きることの一番の目標は「人生の最後の時にどれだけ満足出来たか」だと思っています。同じ時間生きたとしたら、より多く人との出会いを持つこと、幸福を感じられる時間を持つことの方が幸せだと思っています。幸せを感じられると、人は心穏やかになります。優しい気持ちで生活出来ます。人生に前向きに生きていけます。私は自分の子どもにはそうした生き方をして欲しいと思っています。
 幾ら何でも、自分の子どもにいつもイライラした生き方をして欲しいと思っている親はいないでしょう? いつでもニコニコしていて、前向きで、人生を謳歌してくれている方が親としても幸せですよね。でも、何にでも幸福や喜びを感じられるようになるにはどうしたら良いのでしょうか?
 簡単です。今までの幸福の質・物事の価値基準を変えれば良いのです。大きいことばかり追い求めるのではなく、小さいことにも心を配り、価値を見出していくことに努めれば良いのです。それは、お子さんに対しても同じです。どの子にも短所もありますが長所もあります。一つの価値基準で我が子を判断せず、様々な面から見、判断することは、子ども達にとって「自分を見てくれている」喜びとなり、心を落ちつかせる効果となります。まずは挨拶から始め、食事を楽しく食べて見て下さい。『個食・弧食・涸食』等と、子どもが一人で食事をとっている現実と問題点を指摘する言葉が広まりました。確かに、“アレルギー”を軽くする上からも「楽しく食事を取る」ことは大前提なのです。「楽しく食べる」だけで体内の各器官から消化液が正常に分泌され、消化が順調に行われます。「水分で流し込まず、よく噛むこと」も大切なことです。「自分が先に食べ終わっても、皆が終わるまではおとなしく待っている」マナーも、食事の時にしか教えられません。その大切な1つ1つの時間を「忙しいから」の一言で無駄にして良いのでしょうか。工夫して下さい。形ではないのです。人として生きる上で大切なものをきちんと伝える方法を、あなたのご家庭のやり方で良いのですから。
 5−5の『人生の先輩として“手本”となって下さい』と同じことになりますが、ご両親が「子ども達にどういう生き方をして欲しいか!」をまず決め、後は自分達が言動で子ども達に示すだけです。

 生きるものすべてに“価値”があること。“幸福”にも色々な形があること。誰にでも“長所”と“短所”があること。人生には“山”も“谷”もあること。この地球上には色々な肌の色の人、色々な言語を使う人、色々な宗教を信じている人、色々な価値観を持っている人、色々な才能やハンディを持っている人がいること。そして、そんな違いだらけの人達が理解しようと努力し、協力し合って生きていかなければ社会も成り立たないし、その社会の構成員の幸福もありえないこと。そのハンディは生きている以上誰もが持たざるを得ないものである以上、社会がカバーする制度やシステムを用意するのは当たり前であり、それが出来て初めて、誰しもが安心して、自分の才能を生かして、思い切り“自分の人生”を生きることが出来ること。そして、完璧な人なんていないこと。疲れた時には休むことも、危険などからは逃げることも時には必要であること。等々を教えてこなかったのですから。そうすれば、一つのことに躓いても、別の道を探せたはずです。自分をちゃんと理解し、自分を生かす方策を模索できたはずです。

 人は誰でも、時として悪いこと・間違ったことをしてしまう場合があります。それは、一面仕方のないことです。しかし、どんな間違いでも、どんな悪いことでも、してしまった場合は大人でもちゃんと謝り、責任を取るべきなのです。それを見て子どもも学ぶのですから。いくら子どもといえども、悪いこと・間違ったことをした時にちゃんと責任はとらせましょう。それをかばうこと、ごまかすことはその子の(将来の)ためになりません。

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