アレルギーっ子の生活

<06-04      2001年07月07日(土)公開>

【次女とアナフィラキシ−】

 10数年の間に多くのアナフィラキシーを起こした患者さんに接してきました。そして、その予防をどうしたら良いのかと頭を悩ませてきました。それは、私の家族を守るためにも必要なことでした。

 アレルギ−体質の両親から生まれた子ども達5人はみんなそれなりにアレルギ−体質を受け継いでいます。特に次女は、まだアレルギ−の知識が未熟な時に育てた子で、敏感な上に反応が急激に起こりました。

 最初は1才過ぎの時。自宅で母親が赤魚(あかうお:遠洋で獲れたコウジンメヌケなどの赤い色をした冷凍魚の総称)を食べさせました。直後5分後くらいより急に火が付いたように泣きはじめ、顔を擦り始めたのです。魚の汁が付いたと思い拭き取っているうちに、みるみる腫れ上がり、目の結膜がゼリ−状に腫れ、喉元を痒がりました。母親はあわてました。救急車を呼ぼうか迷っているうちに腫れは引き始めたのでした。夕方、私が帰宅した時は、ほぼ普段の顔に戻っていました。妻より報告を聞いた未熟な私は事の重大性を理解できず、「あ、そう」と軽く聞き流しました。(このあと、赤魚でアナフィラキシ−を起こす子が数例続きました。後にじんましんで外来を受診された魚処理工場に勤める大人の方から聞いて分かったことですが、赤魚を処理する工場で何か薬品を使用していたらしく、現場で働く人達も次々にじんましんを起こしていました。現在では赤魚のじんましんは経験しなくなりました。)

 2回目は次女2才の時で、仙台駅3階にある和食のお店ででした。私は「はらこめし」を注文しました。卵のアレルギ−のあることは分かっていましたが、イクラは鶏卵でないし、「試してみよう」などとだいそれたことが頭に浮かび、「止めた方が良い」と止める妻の言葉を無視して、次女のかわいい口の中にイクラを3粒を放り入れました。直後、咳込みが始まり、止まりません。そのうちに唇の一部が赤く腫れ上がり、さらに他の唇の一部が腫れ、それぞれがくっついてどんどん腫れ上がりました。まぶたが腫れ、肘の内側が腫れ、膝の内側が腫れ、そこから周辺に向かってどんどん赤く腫れていきました。食べた物を吐き出してしまいました。その頃には顔は全体が赤く腫れ上がりフグのようになってしまい、可愛い次女の顔はなくなってしまいました。ぐったりして、苦しそうにする次女を抱きかかえ、電車に乗ってあわてて自宅へ帰りました。いま思えば、医者としては失格。きちんと適切な治療をしませんでした。幸い生命は助かりましたが、この時より次女は喘息を発症しました。次女に申し訳ないと悔やんでいます。お店の店員さんが、オカルトかなんかの映画を見るように大きく目を開けて、みるみる変わっていく次女の顔をながめていたことが忘れられません。

 3回目。「1年3組」と言うキャラクタ−物を売るお店が子供たちは大好きでした。次女3才の時。母親たちが買い物に行っているる間、この店で買ったマシュマロを食べさせて車の中で待っていました。ふと見ると、次女の目がおかしいのです。エッと思い、よくみると、目の結膜がゼリ−状に盛り上がり、瞳の部分がそのゼリ−の中に埋まってしまっていました。「しまった!」と思い、マシュマロを見るとマシュマロの中にチョコレ−トが入っていました。すぐ、食べることを止めさせ、抗アレルギ−剤を飲ませ、抗アレルギ−剤を点眼して幸い目だけで症状は消退しました。

 4回目。4才の時。多賀城文化センタ−に母親と講演会を聞きにいった時のことです。母親が講演を聞いている間、知り合いの方に見てもらっていました。その方が気をきかして、長女に自動販売機で乳酸菌飲料を、次に、次女にジュ−スを買ってくれたのです。そのジュ−スを飲んだ途端、次女は喉を掻きむしり「苦しい、苦しい」と暴れまわりました。直前に抽出した乳酸菌飲料がジュ−スに混入したか、ジュースそのものに何か入っていたらしいのです。その方はあわてて母親を呼びました。救急車を呼ぼうかと考えているうちにやや治まり、自宅にあわてて連れ帰り、吸入や抗アレルギ−剤で事なきを得ました。

 5回目。5才の初夏。喘息発作がしばしば起き、体調が悪く、近くに迫った幼稚園のお泊まり保育に行けるかどうかで心配する日が続いていました。この日、私は飲み会があり、出掛ける前に自宅に電話し、子ども達に変わりが無いことを確認して、会場に向かいました。次女は、自宅前の公園で遊んでいたのですが、母親の知らないうちに、友達の家人に連れられてN屋スーパーに行ってしまったのです。後で分かった事ですが、N屋スーパーでイチゴのかき氷を食べ、帰ってくる途中、バタ−のたっぷり入ったパンを勧められて食べてしまいました。ドアの呼び鈴が鳴った時は、とっくに門限の時間が過ぎていました。母親は、ちょっと懲らしめのためドアを開けませんでした。ところがいつもと違い、反応がなく、おかしいと思いドアを開けました。次女はゼ−ゼ−がひどく、肩で息をしており、呼吸困難の状態でした。どうしたのかと問いただしても、何もしていないと言いいます。薬を飲ませ、吸入しようと直ぐに居間に連れていきました。「公園で何したの? 何か食べたの?」と母親が聞くと、「食べていない」と言い、ゼ−ゼ−して苦しい呼吸の中で何やら訳の分からないことを口走りました。ポケットベルが鳴り、自宅に電話した私は妻の話に異常事態を察知しました。ビ−ルが1口入っていましたが、あわてて病院にもどり、副腎皮質ホルモン剤と点滴のセットを持って、自宅へ直行しました。自宅に着くと、次女は床に横たわり、顔色蒼白で全身腫れぼったくなっていました。脈は、弱いが触れます。直後、次女は食べたものを吐きだしました。バニラの香りと赤い色素。これは、何か合わないものを食べたなと思い、指を喉に突っ込み、誘吐させ、すべて出させました。横では7才の長女が「死んじゃいやだー」と泣き叫んでいました。その後、意識が無くなってしまいました。副腎皮質ホルモン剤を点滴し、吸入をしました。呼吸や脈は正常になりました。徐々に頬に赤みがさし、「助かった」と思いました。数分後、娘の体は全身が赤く腫れあがり、アナフィラキシ−の患者さん達が救急車で運び込まれる時の典型的な状態になりました。(この時、もし、体全体が紅潮して腫れあがる前に心臓が止まっていたらアナフィラキシーショックと分からなかったかもしれないという考えが頭の中を駆け巡っていました。)

 後日、次女はこの時のことを話してくれました。N屋スーパーから帰る途中、パンを食べたところまでは覚えているのですが、その後自宅まで歩いてきたことやドアの前で待たされたこと、部屋に入ってからしゃべったことなどはまったく記憶していないのです。N屋スーパーからの約200メ−トルをよくぞ帰ってきたものです。もし、途中で倒れていたら、死亡していたかもしれません。今考えてもゾクゾクとします。

 その後、現在の13才まで、アナフィラキシ−は起こしていません。活発で、遊びに行事に飛び回っています。物語を創作する事が好きで、次女が作った物語を原作に人形劇を作ってクリスマス会で知り合いの皆に披露もしました。喘息の発作は軽くありますが、コントロ−ルできます。アレルギ−の子を持った事が不幸だとは思えません。子ども達のアレルギ−に教えられて今のアレルギ−の診療があるのだと考えています。子ども達が私の先生です。こんな経験があるため、仕事の上でも同じ状況におかれた患者さん達を理解できるし、突然死例で死因不明の中にアナフィラキシ−があるかもしれないと思い、診療を続けてきました。他のお医者さんに「食べ物でそんなことが起きるはずがない」と言われても、現実に私の目の前で私の娘に起きたことをみてしまっている以上、信念を覆すことはできません。そして、同じような症例を多数経験しました。医者も含め、医療従事者や周囲の方の、食物アレルギ−、特にアナフィラキシーに対する理解が求められています。

 後日談があります。以上の文章は1996年に塩釜医師会の会員だよりに投稿した時に書いたものです。1995年に東京で、小学校5年生の男の子が間違って食べてしまったスパゲッティサラダでアナフィラキシーを起こして死亡したことから、食物アレルギーを持つ親の会の追悼集会が開かれ、アナフィラキシーに関する関心が首都圏でにわかに高まりました。色々な経路でNHK特報班と日本放送ズ−ムイン朝の担当者の方から問い合わせが相次ぎ、当院のアレルギ−外来でのアナフィラキシ−の症例の取材に協力しました。そんなことが、以前から書いておこうと思っていた気持ちを高揚させ書いたものです。この文書が、意外な時に役立ちました。

 次女、小学校5年生の初夏のことです。食事も気を付け、学校にはお弁当を持っていっています。環境整備もきちんとやっていました。しかし、お腹が痛い、頭が痛い、湿疹出るなどの症状が2ヶ月ほど続いていました。本人に「何かお菓子でも食べなかった?」と聞いても「食べていない」と言っていました。原因不明のまま、時間が過ぎていきました。夏休みになるすこし前、上の子の机の引き出しが壊れてしまい、直そうとしていました。構造がよく分からないところがあったので、どうなっているのだろうと次女の机の引き出しを開けると、何と!、お菓子の包み紙がいっぱい出てきました。親としては娘のためにと一生懸命やってきたことが裏切られたような気がして、なんとも悔しく、激しく怒りつけました。次女は口をききません。食べたものの包み紙を1つ1つ大きな紙に張り付けながら、入っているもの、何を食べてはいけないのか、食べたために起きた症状を確認していきます。張り終えた時は午後11時を超えていました。最後に、先ほどの文章を出して読ませました。次女は泣き出しました。親の気持ちを分かってくれたようです。アナフィラキシーを起こした現場を見ている親としてはどうしても厳しくなってしまうことがあります。次女は厳しい私達に対して「私をかわいくないんだ」と思っていたのだそうです。この文章が、心のわだかまりを取ってくれたようでした。「大変だったことを素直に記録しておくことって大切だな」とつくづく考えさせられました。しかし、食べたものは一応食べてはいけないお菓子でしたが、次女が一番危ない牛乳や卵の入っている物はなく、果物のジュースや牛乳・卵の入っていないお菓子ばかりでした。しかも、包み紙を捨てずに全部持って帰って来て、引き出しに貯めておくなんて、なんて素直な反逆でしょう! あの時は必死で怒りましたが、今思い出すと微笑みたくなります。

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