毎日新聞−2001年(平成13年)05月16日(水)

記者の目

 ハンセン病訴訟原告勝訴 姜弘修(熊本支局)
隠匿被害「解き放たれた」  国は誤り認め救済せよ

 熊本地裁で11日、患者隔離の違憲、違法性を認めたハンセン病国家賠償訴訟の初の判決は、誤った法や政策が社会の差別や偏見を助長した責任にも言及し、早期解決への道を開いた画期的な司法判断だった。忘れてしまいたいような被害に、訴訟を通して自ら光を当てた元患者たちの喜びの声の中には「やっと」「ようやく」という言葉が多く聞かれた。何より、元患者たちが司法にかけた思いがくみ取られたことに正直、ほっとした。

 原告弁護団の徳田靖之代表に「一番訴えたいことは何か」と聞いたことがある。「これほど大きな被害が今まで隠匿され、元患者たちも差別や偏見の中で病歴の露見を恐れ、被害を隠してきた。それをいかに解き放つかが裁判の一番の目的だった」
 隠し、隠されてきた人権侵害−。全国13カ所の国立ハンセン病療養所の入所者は平均74歳。訴訟が起きなければ、国の責任はあいまいにされたまま、被害は歴史に埋もれていっただろう。
 私は入社2年目の終わり、訴訟の第2回口頭弁論から取材にかかわった。それまで全国最大の国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(熊本県合志町)のある県で記者をしながら、らい予防法という法律名すら知らず、療養所を訪ねたこともなかった。
 療養所で取材に応じてくれたのは病歴を明かして提訴した数人の原告だった。無知な質問に長持間、体験を語ってくれた。だが、他の原告の紹介を頼むと「知らないから」と申し訳なさそうに言われた。訴訟の一つの特徴は本名を隠して番号で原告を識別する匿名訴訟だが、一部を除いて原告の間でも誰かは明らかにされていないことを知った。病歴を隠し、国立療養所が唯一の生活の場である元患者には、国を相手にした訴訟に加わるのは難しい。いまだに隔離被害から抜け出せない現実は重かった。
 療養所に通ううちに、少しずつ体験を明かしてくれた60代の女性入所者がいる。夫の取材で初めて訪ねた時、戸を閉めた隣室にいて取材の間、全く姿を見せなかった。何度か通い1年ほどしたころ、同じ部屋で少し言葉を交わすようになった。夫の取材の合間に自分の体験や思いをぽつり語ることもあった。
 その女性が法廷で20代の時に強要された中絶の体験を証言した。出番を待つ間は、うつむいたままだった。「今も悲しみは解けません」。背中が小刻みに震えているのが見えた。取材で見られなかった感情の高ぶりを目にし、今もいやされることのない心の傷の根深さを思い知った。
 原告は裁判官に直接、被害実態を訴えた。恥辱ともいえる断種・中絶などの体験をさらし、ある原告は傍聴席から見えないよう背後につい立てをして証言した。非公開の場で被害を訴える原告も多かった。
 13人で始まった訴訟は3次まで十数人の追加提訴にとどまっていた。それが4次に至ると、83人が追加提訴した。4次に加わった曽我野一美さん(現・全国原告団協議会長)は「国の主張は奇弁。黙っていられなかった」と提訴の心情を語った。訴訟は東京、岡山両地裁にも起こされ、原告数は現在、779人まで広がっている。
 隔離された側の心情に、戦後も一貫して向き合うことなく、訴訟でも時効の一種である除斥期間の主張などで責任を免れようとした国自らが、元患者のうっ積した怒りを噴出させ、大きなうねりを招いたように思う。訴訟の広がりは「何も終わっていない」ことの証左でもあった。
 判決は原告の訴えをほぼ全面的に認めた。ハンセン病政策の被害が初めて被害として認知され「解き放たれた」瞬間だった。判決後、原告弁護団のもう一人の代表、八尋光秀弁護士は「司法によって壁が破られ、人間回復の橋がかけられた」と語った。決して大げさな表現には聞こえなかった。
 127人を対象にした判決だが、隔離政策の誤りが指摘されたのであり、ハンセン病政策の対象となった元患者すべてにあてはまるものといえる。「極めて深刻な被害」と位置づけた判決は「個別被害の立証では訴訟が大きく遅延する。それでは真の権利救済は望めない」と述べ、早期解決への「橋」をかけた。
 判決が投げかけた「真の権利救済」は、国が誤りを認めることから始まる。被害に背を向けていた一人として、二度と元患者たちの声を遠ざけてはならないと思う。国は控訴すべきでない。     

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