読売新聞−2001年(平成13年)05月10日(木)

奪われた日々
−ハンセン病国賠訴訟判決−

元官僚「法は誤りだった」 処遇改善努力も……悔恨消えず

 1999年8月27日。熊本県合志町の国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園に入所する原告の志村康さん(68)は雨の中、熊本地裁へ足を運んだ。この日、証言台に立ったのは、元厚生省医務局長、大谷藤郎さん(77)。
 国立療養所課長や公衆衛生局長を歴任し、国のハンセン病政策の中枢を歩いたキーマンがどんな証言をするのか−。志村さんはメモを片手に、証人の背中を息を凝らして見つめていた。
 原告代理人「らい予防法が成立したのは誤りだったのではないですか」
 大谷さん「誤りであったな、と思います」
 同法は96年に廃止されるまで、患者を隔離してきた国の政策の根幹だった。大谷証言は、その落ち度を率直に認めた。真後ろで聞いていた志村さんは胸が熱くなった。
 「彼は被告の国そのもの。それが法の誤りを認めたんだから、裁判やってよかった」
 志村さんは58年、園内で結婚。翌年、妻は妊娠したが、中絶させられた。「裁判長、私の子供を国から取り戻してください」。子供の位はいをかばんに忍ばせて入廷した98年11月の第一回口頭弁論で、こう訴えた。

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 18歳からボランティアでハンセン病患者に接した大谷さんは、「この病気は治る」と確信していた。
 国の隔離政策に矛盾を感じ、法で制限されていた入所者の外出を黙認したり、厚生省(現・厚生労働省)に陳情に来た患者を部屋に招き入れたり、″解放政策″に腐心したが、法の廃止にまでは踏み込めなかった。
 「官僚としての限界だった。(法廃止より)処遇の改善が優先との声もあり、一番正しいと思ってやっていたが、自己満足だった」

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 大谷さんの証人尋問は夕方まで続いた。
 「小手先の対応だった」
 「患者の汚名屈辱というものに目を曇らせていた」
 次々と悔恨の言葉が飛び出した。証言が終わると、原告や支援者で埋まった傍聴席は総立ちに。拍手がわき、握手を求めて駆け寄る人もいた。
 志村さんも拍手を送ったが、「国の中枢にいた彼にも責任はある」との思いは消えない。
 大谷さんは現在、国際医療福祉大の学長。年に数回、講義でハンセン病の歴史を語る。「自分の過ちを二度と繰り返さないで」。そんな願いが教壇へと向かわせる。
 「国に反省してもらわなければ裁判をする意味がない。過去を葬り去ってはならない。裁判をその歯止めにしたい」。大谷さんは歴史の総括となる判決を期待している。



あす初判決 熊本地検  「隔離の違法性」争点
  1996年に「らい予防法」が廃止されるまで、90年に及ぶハンセン病患者の隔離政策の違法性の有無が最大の争点になっている「ハンセン病国家賠償請求訴訟」の判決が11日、熊本地裁(杉山正士裁判長)で言い渡される。同訴訟は、東京、岡山を含め三地裁で審理中で、今回が初の司法判断となる。げんこくは、西日本地区7施設の入・退所者127人で、国に対し、1人当たり1億1,500万円、総額146億500万円の賠償を求めている。 原告側は国の責任について、「治療の進歩で50年代から隔離が否定され、53年のらい予防法制定時に隔離は不要だった」と指摘。「医学的根拠が失われたにもかかわらず、隔離政策を推し進め、法律を制定し、廃止しなかった」と主張してきた。 一方、国側は「医学的知見に基づいて、ハンセン病対策を講じ、65年以降は法の弾力的運用で共生入所や外出制限はなくなった」と反論。隔離が不要になったのは「治療が確立した81年以降」とし、法律廃止の遅れは認めたものの賠償責任はないとした。

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