毎日新聞−2001年(平成13年)04月16日(月)

遺伝子を操る

−新 神への挑戦− 第3部@
"スーパー羊"光と影
−消えぬ不安「モンスター出現」−

 ゲノム(全遺伝情報)は「生命の設計図」である。あなたの肌や日の色、体の大きさなどが、これに基づいて形作られる。設計図は親から子に受け継がれ、細胞中の染色体にDNAの暗号文字として書き込まれている。人類は20世杷末、ヒト・ゲノムの暗号文字の配列をほぼ解読した。ほかの生物についてもゲノムの解読は進む。設計図が分かれば、それを書き換えて、生物の性質を思いのままに変えられるかもしれない。連載第3部は、遺伝子研究の最先端を訪ね、遺伝子操作が私たちにどんな未来をもたらすのか採る。

 その羊の皮膚にたかったハエだけは、なぜかバタバタと死んでしまうのである。「自動殺虫機能」を持つ殺虫羊−。こんな"スーパー羊″を作るプロジェクトがオーストラリアで進んでいる。
 オーストラリアには人口の6倍を超す1億2000万頭の羊がいる。その最大の天敵が寄生バエである。皮膚に産み付けられた卵から幼虫がかえり、羊の皮膚や筋肉を食べる。このため弱って死んでしまう羊もいる。殺虫羊ができれば、毎年200億円以上もの防虫対策費が浮き、羊毛や羊肉の生産コストを減らせる。
 どうやって作るのか。実はまだ殺虫羊には至っていない。だが、前段階の殺虫マウスを作る実験は、連邦科学産業研究機構(CSIRO)で着々と進んでいる。

 キチンという昆虫の外皮を作るたんばく質がある。キチナーゼという酵素が、これを分解する。マウスの受精卵にキチテーゼを作るタバコの遺伝子を組み込んだ。この受精卵から育ったマウスの汗の中にはキチナーゼが分泌されていた。組み込んだタバコの遺伝子が働いたのだ。
 研究の総括責任者、ケビン・ウォード博士(分子生物学)は語る。
 「タバコの遺伝子が作るキチナーゼは量が少なく、ハエを殺せない。しかし、大量のキチナーゼを分泌するキノコの遺伝子を組み込めば、殺虫マウスはできる。数年のうちに殺虫羊も誕生させたい」

 殺虫羊より研究が進んだ"スーパー羊"もある。牧草が不足してもふさふさした良質の毛を生やす羊だ。
 良質の羊毛にはシステインというアミノ酸が欠かせない。羊毛繊維の成分である。ところが、羊の体内ではシステインは作れない。牧草に含まれている。だから、干ばつなどで羊が牧草を十分食べられないと、羊毛の質は低下する。システインの遺伝子を組み込めば、ヒツジの体内でシステインが作られ、牧草なしで立派な羊毛ができる、というわけだ。大腸菌から取り出したシステインの遺伝子が使われている。マウスの実験は終わり、ヒツジの受精卵に遺伝子を組み込む実験が、この3月にスタートした。

 遺伝子操作によって普通の羊より早く成長する羊も登場している。受精卵に羊の成長ホルモンの遺伝子を余分に組み込む。通常より約3ヵ月早い生後9〜12カ月で大人になる。この成長加速羊は、1993年以来約500頭誕生している。体重も通常より平均10`重いという。

 ところで、"スーパー羊"は人間に害はないのか。たとえば、殺虫羊が誕生したとして、人間がその肉を食べても安全なのだろろうか。「昆虫と違って人間はキチンを持っていないし、キチナーゼは胃で分解される。将来は人間に都合の良い性質をいくつも兼ね備えた羊ができる」とウォード博士は言う。

 生物に外部から遺伝子を組み込む遺伝子組み換え技術は、70年代初頭に生まれた。今では、インターフェロンなどの薬品は、ヒトの遺伝子を組み込んだ大腸菌を使って生産されている。害虫に抵抗力を持った大豆やトウモロコシも普及している。
 米国では、この技術を応用して「食べるワクチン」が開発された。病原体から免疫細胞の標的になるたんぱく質(抗原)の遺伝子を取り出し、ジャガイモに組み込む。コーネル大の研究では、食中毒を引きおこすウイルスの抗原を組み込んだジャガイモを食べた20人のうち19人にウイルスへの抵抗力がついた。ロマリンダ大のウィリアム・ラングリッジ教授(生化学)も、コレラ菌などの抗原の遺伝子を組み込んだジャガイモを作った。
 ラングリッジ教授は「ワクチンと違って低温で保存する必要はないし、注射器もいらない。バナナや米などに組み込めば、発展途上国でも大量生産できる。5年以内に実用化したい」と話す。

 しかし、遺伝子組み換えが思わぬ結果を招くこともある。
 オーストラリアの害虫駆除センターなどの研究チームが昨年、不妊マウスを作るため、遺伝子を組み換えたウイルスを40匹の雌マウスに注射した。40匹すべてが10日以内に死んでしまった。使ったウイルスはマウスに天然痘のような症状を引き起こすものだが、40匹はこのウイルスに抵抗力があり、死ぬはずはないと考えられていた。
 しかし、組み換えウイルスには、受精を邪魔するたんぱく質の働きを強めるため、別の生理活性物質の遺伝子も組み込まれていた。この物質がマウスの免疫を乱し、ウイルスの病原性を強めたらしい。
 「予想外のできごとだったので、研究は中止した。ヒトの天然痘ウイルスに同じような操作をすれば、種痘を無効化する殺人ウイルスができる恐れもある」と、研究チームのロナルド・ジャクソン博士(微生物学)は説明する。
 予期せぬモンスターを作る怖れと、有用な生物を生み出す期待。遺伝子操作による生物改造は、二つの可能性の間を進んでいる。

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