毎日新聞−2000年(平成12年)12月16日(土)

教育 学校と私

  生涯学習に取り組む静岡県掛川市長    榛村 純一さん

いなくなった「5人の先生」

 私は家業を継いで山の仕事をしてきた。1970年代、山を捨て、都会に出る人が多くなった。残る人に「子供の教育のため」と言って出ていった。林業で生計を立てるのは厳しくなり、「せめて子供に学歴をつけさせ、サラリーマンにしたい」という願いがあったのだと思う。
 しかし、私にとっては「村は死ぬまでわが大学」だ。子供のころ、川に飛び込んで、自由に泳ぐ魚と同じ気持ちで、暗くなるまで遊び育ったところだ。こんなすばらしい村を捨て、なぜ都会に行くのか。山村や農村では教育はできないのか、と思った。それで私は地域で生涯学習をしなければと奮い立った。
 当時、日本は反省してブレーキをかけていればよかった。しかし、田中角栄(元首相)の時代にアクセルを踏み過ぎて、都市化、工業化、向都離村が一気に進んだ。向都離村は学歴社会を加速させ、15歳か18歳での「選別」を余儀なくした。落ちこぼれた子が問題行動に走るようになった。「切れる少年」は、挫折に対する免疫がない、しなやかさがない。
 なぜなのか。40年前の子供には「5人の先生」がいたが、今はいない。「5人の先生」の1人は兄弟姉妹。殴れば痛いということを思い知らされた。2人目はガキ大将。地域子供社会は、いわばミニ大人社会だ。3人目は祖父母の小言とおやじの一喝。しかられたり、褒められたりのハーモニーとバランスがあった。4人目は自然。自然と遊んだから、この木は折れやすいといった危険も知った。5人目は、貧しさとおふくろの愛情。これらすべてが、子供のブレーキとアクセルだった。
 以前の学校教育には、この「5人の先生」が前提にあった。それが今はないから、あたふたしている。
 家族と地域が崩壊した今、私は地域を大家族と考え、地域で生涯教育を進めている。掛川市を大学のキャンパスと考えている。「ねむの木学園」や「資生堂資料館」など各分野での研修の場を「…とは何か学舎」として提供してもらい、テーマパークにしている。第三セクターで米国に農場と森を買い、そこでも市民の研修をしている。掛川には「切れる少年」はいないというのが目標だ。

1934年静岡県掛川市生まれ。早大文学部卒。63年から市森林組合長、77年から市長を務め、79年全国初の生渡学習都市宣言。早大客員教授として現代都市地域論などを講義。著書に「分権の旗手」など。

2000年12月のニュースのindexページに戻る