毎日新聞−2000年(平成12年)12月10日(日)

来夏 車いす登山に挑戦 
静岡のグループ ボランティア募集

 静岡県内の福祉施設職員や高校教諭らでつくるボランティアグループ「アッパース富士の山」(関泰代表)が来年8月、車いすの重度障害者をサポートして富士登山に挑戦する。デイサービスセンター職員の森光博さん(41)=静岡県富士宮市=が今春、障害のある通所者から「一度、富士山に登ってみたい」と打ち明けられたのがきっかけ。富士市や富士宮市の重度の障害者3人が、緩やかな道では特別製の車いすを使って自力で、急傾斜面などではボランティアに車いすごと担いでもらって、山頂を目指すという。この登山にはボランティア約50人が必要で、協力者を募っている。問い合わせは事務局の稲葉辰己さん(0544・27・1736)へ。                                                                【稲垣 洋介】

★いっぽのコメント★
 私も10年以上も前に障害者との富士登山を企画し、実現した。8月のお盆休みを利用しての2泊3日の強行スケジュール。参加費は1人15,000円と格安に設定したが、その時の参加条件は「一切手を貸さない。自分で行けたところまでが“あなたの富士山”で良い人だけ」だった(宿泊施設等は車いす使用可のところを用意したが、成人の車いす使用者の参加は0だった。歩行困難者1、言語障害者1、重度障害児1の他、大人5、小学生3、幼児1の計12名で、山頂まで行けた者3名、9合目まで2名、8合目まで2名、5合目で待機5名)。
 「車いす使用者を大勢のボランティアが交代で担ぎ富士登山を実現した」というニュースは当時もあった。マスコミの取り上げ方の問題もあろうが、そのことに私は反発した。「車いすに何時間も乗り、それも足場の悪い道を担がれて富士山を登頂する」、そのことの本人及び参加者の大変さと努力には敬服する。しかし、「それだけで良いのか!」と。
 当時見ていたアメリカのドラマの中で車いす使用者が5人と主人公の1人が登山をするシーンがあった。「何で車いす使用者5人に1人だけ?」。主人公は登山中殆ど手を貸さなかった。車いすで行かれないところは車いすから降り、這って進んだ。主人公は危険に遭遇した時だけのヘルパー役だった。その時、彼ら6人は対等の仲間だった。それが当り前のように扱われていたことに感動した。アメリカの民主主義の凄さ、懐の広さ、チャレンジャーの意識の高さにガツーンと頭を殴られた思いだった。
 それ以前から、我が国でもそうした考えを持って生きていた人達がいることを知ってはいた。会計士をされているA氏は2階以上のお客様のところへも自力で出向く。車いすから降り、手で階段を上っていく。A氏は登山も好きで手だけで上る。しかし、足を引き摺って歩いていては足に“辱創”が出来て、命取りになってしまう。そのために特性の足を入れる袋も考えた。時間があると階段を使っての訓練が紹介されていた。それはそれはハードだった。
 私の知り合いのB氏も車いすの使用者だ。大きな会の会長さんもされていたので全国を飛び回っていた。当時は、まだ新幹線を利用するにも2〜3日前に駅に連絡を入れておかなければ手を貸してくれない時代だった。しかし、相手あってのこと。話し合いが長くなれば予定は変わる。そのため、彼は駅員の手を借りずに新幹線を利用した。手に高下駄を履き、階段を自力で上がり降りした。車いすは紐を掛け、首に掛けて引っ張り上げていた。
 私が学生時代に関わっていた重度障害者の会の人達は“チャレンジャー”と呼ばれるに相応しい人達ばかりだった。当時、新幹線が博多まで延びたことである県の障害者団体が旅行を企画し、当時の国鉄に相談したが協力を断られ、旅行を断念した。そこで、私が関わっていた会は国鉄の協力を期待しないで“京都旅行”を実行した(車いす使用者40名、松葉杖使用者20名、ボランティア40名くらいだったと記憶している)。改札口は幅が狭く車いすのままでは通れないので担いで越えた。階段も担いで上がった。新幹線の乗降口も障害者用車輌以外は狭く、そのままでは乗れないのでおぶって車いすとは別に乗り、指定座席に座る。名古屋駅の停車時間は約2分なので全ての乗車口から車いす使用者が2名ずつ乗り込むように振り分け、それでも2本に分けなければならなかった。障害者が団体で、国鉄を利用し、それも特別列車でなく、一般の人たちと一緒に旅行した。これによって名古屋駅は改札口を一部広げ、障害者用トイレを設置した。日帰りのこの旅行を実現するために数々の問題をクリアーし、みんなの努力で成功に終わらせたが、これが“ゴール”になってはいけない。これは、この会の“通過点”に過ぎなかった。この後、この会は様々なスポーツにも挑戦した。今では障害者スポーツとしては当り前になっているスキーやスキューバーダイビング、テニスの他にヨットにも取り組んでいた。名古屋市の市民祭りの1つも企画・運営するまでにもなった。数々の福祉講演会も開催し、作業所や自立ホームを開設し運営している。寝たきりの障害者でもコンピューターを利用し、作業に参加している。まだまだ“進化”している。
 そんな彼らを見ていて、いつも感じていたことは「“特別な扱い”をしてはいけない」ということだった。ボランティアとは、「常に“障害”を持つ者が与えられ、“障害”のない者が与えるものではない」と言うことだ。私は車の免許がない時には“障害”を持つ仲間に送迎して貰っていた。彼らに“ボランティア”して貰っていたのだ。しかし、ここで大事だったのは「“ボランティア”する、しない」のレベルの問題ではなかった。「自分がどう生きるか。みんなとどう関わって生きていくか」ということだった。そして、ひとつひとつ“壁”を乗り越え、高め合ってきた。
 自力で動けない人達もいる。そんな彼らの中にだって「富士山の山頂に立ちたい」という夢を持っている人もいるだろう。その時にその夢をどう実現するのが良いのだろう。ただ、山頂まで連れて行けば良いのだろうか。願わくば、そのことを通じて俗に言う「障害者、健常者」の垣根を取り払い、互いに自立した1人の人間として、自律した生活を目指すきっかけになって欲しい。

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