読売新聞−2000年(平成12年)10月17日(火)

はばたき

学校再生へ苦渋の選択

  暴力・いじめに出場停止  歯止め利かぬ子どもら

措置後のケア不可欠

 「出席停止」「転校」。校内暴力やいじめなど問題を起こす生徒への対応として、こうした厳格な処置が有効なのか−−。教育改革国民会議が先月、「問題を起こす子ども以外の子どもたちの教育環境を守る」と提案したことで、その是非に改めて注目が集まっている。「今の学校状況ではやむをえない」「保護者も真剣に考える機会」などの肯定派に対し、「罰しても何も生まれない」と慎重派。今、あえて「厳しさ」を求める学校に何が起きているのかを探った。  (社会部 高田 浩之)

現場の悩み

 「このまま学校での指導は無理だと判断した。教師だけでなく、生徒にも危害が及ぶ危険があった」

 関東地方のある公立中学の校長(54)は、苦悩の表情を浮かべながら、生徒2人に「出席停止」を命じた当持を振り返る。

 昨年冬の昼休み、10人近い男子生徒が給食用のリフトに乗ったり、校舎の消火栓のホースを引っぱり出すなどした。それを止めようとした教師ら5人が、2人の生徒が振り回したホースの金具で顔を殴られるなどして顔の骨を折るなどの重軽傷を負った。

 「出席停止」は、反省するまでの無期限。「やむをえない措置だった」。校長は当特、教頭としてこの判断に加わったが、事件の一週間後、2人は傷害容疑などで警察に逮捕された。

 3年生だった生徒らの行動が目立ち始めたのは、2学期の半ばごろ。最初は先生にじゃれつくように肩をつつく程度だったが、教師をけったり殴ったりと、エスカレートしていった。

 担任らが、各家庭に通って保護者に注意を促しても改善されない。「生徒に暴力で返さない」ことを決めただけで、有効な手だてのないまま、暴走を続ける生徒たちに、教師たちも身の危険を訴え始めた。「出席停止など厳しい態度で臨むべきなのか」。学校がそう考え始めたころ、あの事件が起きた。

 「一対一で最近どうだと話せば、私たちともちゃんと話せる。本当に悪い子だとは最後まで思えなかったが、(問題行動を)直接注意したらキレるんじゃないかという怖さがあった」と、生徒指導担当の50代の男性教諭は、指導の難しさを口にする。傷害事件に発展したあの昼休み、完全に理性を失った二人の顔が、脳裏をかすめる。

 出席停止の期間中は、本来、担任教諭らが家庭訪問しながら、家庭での反省や課題学習に取り組むことが必要だが、生徒2人が少年審判を終え、自宅に戻ったのは卒業式直前。生徒へのフォローは、司直の手にゆだねられ、学校としては事実上できなかった。

 事件後、地域の人が心配して、朝、校門での声かけや夜の見回りなどで協力した。事件が教訓となって、学校は変わったという。

 「今、先生たちにはゆとりを持とうと呼びかけている」。そう校長は語る。だが、ゆとりがあれば、違った対応がとれたのか、その問いかけに、「これでいいというものはない。いろんな方法を模索している…」。学校現場の悩みは深い。

異例の予告

 広島県神辺町の町立神辺西中学校では今夏、一度に20人の生徒に「出場停止」の発令が予告されるという異例の事態が起きた。

 同中では1学期、一部の生徒が、キックスケーターで廊下を走り回る、校舎の電源を切る、教師に暴力をふるうなどの校内力、授業妨害が繰り返された。

 学校側は別教室に問題のグループを集めて指導したり、家庭訪問や保護者に授業参観に来てもらったりと正常化に努めたが、事態は収まらなかった。

 出席停止は学校教育法に定められているが、義務教育の中学では「教育の権利を奪うものになる」と多くの学校は消極的だ。しかし、同中は7月、20人の保護者を呼ぶなどして、「このまま事態が改まらなければ出場停止にする」と伝えた。最終的に、2学期になっても教師に暴力をふるった2人が出場停止となった。

 「決断しなければならない時期だった。自分を見つめ直す機会にして欲しかった」と同中の藤原幸博校長は苦渋の判断を説明する。 今後について、藤原校長は「3年計画で学校を建て直したい」と言う。出場停止は決してゴールではなく、学校再生への道のりは依然として険しい。

 教育評論家の尾木直樹さんは同中の一連の措置について、「子どもの安全と学習権を守るために、き然とした態度で臨んだことは間違っていない」としている。さらに、「学校は毎日教師が家庭訪問するなど、全力で生徒を立ち直らせる気構えで臨むべきだ。排除ではなく、生徒が学校に戻ってこれるよう、他の生徒への指導など、受け皿作りも必要だ」と、出場停止処分後の十分なケアを求めた。


★いっぽのコメント★
 問題行動を起こす子、荒れている子に対する対策の選択肢の1つに「出席停止」があっても良いと思う。彼らにも「教育を受ける権利」があることは当然のことだが、他の子供たちの「教育を受ける権利」も保障されなければならない。
 只ここで指摘しておきたいことは、家庭内暴力でも同じことが言えると思うが、彼らには“心の居場所”がないのだ。彼らを丸ごと受け止めてくれる人達(大人に然り、友人に然り)がいないのだ。心が淋しいのだ。そんな彼らを“排除”しているだけでは何も解決しない。
 教育評論家の尾木氏が言うとおり「“排除”ではなく、彼らが学校に戻ってこれるよう、他の生徒への指導など、受け皿作りも必要」だと思う。これは、教師・親だけで取り組むのではなく、他の生徒達にも保護される立場に甘んじさせているばかりでなく、“友人”としての役割を自覚させ、積極的に関わらせることも含まれる。「自分達には関係ない」と第三者的な態度からは交流は生まれない。誰の人生にも“真の友人”が必要である。一緒に悪いこと、皆に迷惑を掛けて面白がっている仲間達からは社会人としての“資質(=社会性)”を学び取ることは出来ず、脱社会の一途を辿ってしまう怖れがあるからだ。そして、自分達の人生のためにも、今ここでの努力や苦労は学業で学ぶ以上のものを与えてくれると思っている。
 学校教育だけが“教育”の場の全てではないと思っている。色々な形で“教育”が保障されれば良いとも思う。学校側が全ての子に合わせることも、全ての子がその学校に合わせることも不可能だ。それを求めるから“無理”をし、問題が生じるのだ。
 「教育を受ける権利」とは受けたいと願う子供達には等しく与えられた権利だと思うが、その学校での教育を受けたくないと思っている子供達に周囲が無理して与えるほどのものではないと思っている。何にでも“益”もあれば“害”もあることを自覚すべきだ。
 要は、様々な形の“教育の場”があって、それを子供達が選択し、個々の教育に関する“欲求”を満たしていくことが必要なのではないだろうか。
 もう、学校教育を通しての子供達の人生へのレール作りは時代にそぐわない気がする。

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