読売新聞(岩手県版)−2000年(平成12年)10月02日(月)

社 説

  五輪閉幕 世紀を越えるいくつもの課題

 女子マラソン金メダルの高橋尚子選手が輝いていた。いつもながら、戦い終えた者たちの表情はいい。シドニー五輪が、多くの笑顔とぬくもりに満ちた閉会式で、その幕を閉じた。
 日本選手団は予想を上回る活躍だったと言っていいだろう。ひ弱な日本人選手というイメージを覆し、多くの選手が大舞台で持てる力を精いっぱい示すことができた。その姿は誇らしく、私たちを大いに勇気付けてくれた。
 今回は特に女子選手の活躍が目立った。高橋選手、柔道の田村亮子選手はじめ、競泳、シンクロナイズド・スイミング、ソフトボールなどは見事な戦いぶりだった。
 日本は世界的に見れば女性の社会進出はまだ遅れている。だが、スポーツの分野では世界をリードする女性が続々と登場し始めた。このことも、男女を問わず、日本の私たちすべてに元気を与えてくれた。

 ただ、今大会ではいくつかの後味の悪さも残った。一つは、柔道100`超級篠原信一選手の判定を巡る問題だ。
 決勝戦での「すかし技」を、審判団が相手側のポイントにしたとして、日本が猛抗議した。しかし、結局、篠原選手の金メダル獲得はならなかった。
 柔道のルールでは、審判が試合場から離れた後は判定を変えることができないという。コーチ陣は抗議するタイミングを誤った。この点がまず残念だ。
 審判団の技量にも疑問がある。仮に、めったに見ることのない高度な技を見抜けなかったとするなら、柔道の魅力を審判自らが損ねていると言っていい。
 審判の力量は競技の盛衰にかかわる。競技団体は審判の指導、育成にもっと力を入れる必要があろう。
 柔道のほかにも野球などで微妙な判定が問題になった。陸上競技や水泳では電子機器が判定に導入されている。他の種目でも判定の客観性をどう確保するか徹底的に追求し、ビデオや電子機器の利用についても研究を急ぐ必要がある。

 今大会もまたドーピングによるメダルはく奪が相次いだ。無実を訴えた女子体操ルーマニアのラドゥカン選手の「悲劇」は、訴えの当否は別にしても、せっかくの五輪を極めて後味の悪いものにした。
 ドーピングを巡っては、検査で発覚するのは氷山の一角という説もある。新たな薬物が開発されても、それに検査技術がすぐには追い付かないからだ。
 この問題の根本には、とどまるところを知らない五輪の商業主義化がある。選手の商品化がここまで進めば、少しでも高く売り付けるために手段を選ばない選手が出てくるのは、ある意味で当然だろう。
 判定を巡る不満が噴出したのも商業主義と無縁ではない。テレビの視聴率を稼ぐための種目の拡大、テレビ映像を意識したルール改正などが影を落としている。
 20世紀最後の五輪で究極まで行き着いた感のある商業化路線をどうするのか。来世紀に引き継がれる課題は深刻だ。

★いっぽのコメント★
 スポーツに“ルール”がなくなったらもはやスポーツではない。スポーツである以上“ルール”に則って行われるべきだ。ルーマニアのラドゥカン選手には可哀想だが“禁止薬物”が出てしまった以上仕方がない。医師が不勉強を恥じ、選手に詫びる以外にない。
 選手が勝つ(=自分に)ために一生懸命精進したのなら、それに関わる審判団や役員・関係者もそれなりに努力して欲しいと思う。医師も最新の情報を入手し、慎重にも慎重の上に判断し、2度とこんなことが起きないようにして欲しいと思う。
 審判は絶対である。審判は自信と確信をもって判定して欲しい。そうでなければ選手は安心して競技出来ない。
 しかし、人間がする以上ミスもある。それを覚悟出来ないのなら競技する資格はない。お互いの信頼の元、正々堂々と競技し、その結果を素直に受け止め、次へのステップにして欲しいと思う。
 そして、誤りは誤りとして、認められた場合は素直に謝罪する必要がある。それが、信頼にこたえることだと思う。しかし、その時下した判定は覆す必要はない。それが、ルールであり、スポーツだと思うからだ。
 スポーツが純粋に選手の努力の成果の発揮の場となることを望む。

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