毎日新聞−2000年(平成12年)10月02日(月)

社説

楽しさこそが祭典の命だ

 シドニー・オリンピックが幕を閉じた。テレビで五輪の楽しさを堪能した人も多かったに違いない。
 金メダルに輝いた女子柔道の田村亮子選手や女子マラソンの高橋尚子選手ら日本選手たちの大活躍も、楽しかった大きな理由だ。が、それだけではない。
 開会式で、聖火最終点火者を務めた豪州の先住民、アボリジニのキヤシー・フリーマン選手には、いくつもの重圧がのしかかっていた。それをはねのけ、女子四百bで優勝した後、豪州とアポリジニの旗を持って、ウイニングランをする姿は感動的だった。
 陸上百b障害のオルガ・シシギナ選手(カザフスタン)や、トライアスロンのブリギット・マクマホン選手(スイス)らママさん金メダリストの強さには、「やるね−」の一言だった。100分の1秒を争う男子競泳の決勝の迫力には、圧倒された。
 勝者の笑頼は美しく、敗者の涙は胸を打つ。すべての参加者に拍手を送りたい。なぜ五輪は、これほどまでに魅力にあふれているのか。競技者も、見る者もともに味わえる楽しさがあるからだ。楽しさこそ、スポーツの祭典の「命」だろう。

 では、どうしてオリンピックが、そんなに楽しいのか。上手、下手に関係なく体を使い、優劣競うスポーツそのものが素晴らしい。まして、世界の一流選手が一堂に集まり、鍛え抜かれた体力と技で闘う五輪が楽しくないはずがない。

 しかし一方で20世紀のオリンピックは、いくつもの深刻な問題を抱えたまま、21世紀に引き継がれる。肥大化と商業化は、今大会でいっそう進んだ。
 さらに気になるのは、拡大を続けるドーピング(禁止薬物使用)汚染である。スポーツの持つ素晴らしさを、根底から損なう行為である。五輪を包む「暗雲」と言っていい。危機感を持った国際オリンピック委員会(IOC)は、昨年、世界反ドーピング機関(WADA)を設立しているが、汚染拡大の背買には過度の商業化がある。
 体操女子個人総合の優勝者、アンドレーア・ラドゥカン選手(ルーマニア)について、検査の結果、禁止薬物である興奮剤のプソイドエフェドリンが検出されたため、金メダルをはく奪した。ルーマニア側はかぜ薬を飲んだ影響だったと主張し、ラドゥカン選手に同情の声もある。しかし、IOCの厳しい判断は、当然の対応だったろう。
 ギリシャに生まれた古代オリンピックも、似たような経過をたどり、末期には、あやしげな植物の葉を焼き、煙を吸って出場する「ドーピング」が登場しているという。

 最近では、血液の働きを活発にさせるドーピングまでが行われ、赤血球増加ホルモンなどが使用されている。遺伝子ドーピング(遺伝子操作)さえも登場するのは時間の問題だという。
 「サイボーグ」同然の競技者の闘いは、五輪の「命」である楽しさを奪うことになるだろう。
 オリンピックは100年余かけて育ててきた人類共通の財産だ。開会式と閉会式で韓国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、「統一旗」を掲げて行進した。五輪は、また一つ「花」を咲かせた。
 この財産を来世紀も守り続けていくためには、関係者の謙虚さと自制が必要である。

いっぽのコメント
 人間にはどこまで可能性があるのだろうか−その答えを示してくれるのがこのオリンピックをはじめとする各種のスポーツの祭典だと思う。その点で大いに感動させられた。
 その反面、水泳の赤道ギニアの選手が「この大会で初めて50bプールで泳いだ」というように、スポーツさえ出来ないような環境の人達にもその機会を与えたこと(その後この人にスポンサーが付き、継続して取り組めるようになった。4年後のこの人の成長を見てみたい)に感銘を覚えた。
 しかし、その反面、商業主義の横行やメダル取りのために違反すれすれの薬物使用が後を絶たないことには閉口させられる。違反しなければ良いのか。本人の努力以外のところで様々な素材や薬の研究・実験・開発がされているようだ。その恩恵を被れる人と被れない人の差は益々開くばかりだろう。これではオリンピック本来の意味を失ってしまうだけだ。オリンピックに「国の威信を掛ける」必要はない。誰にでも夢と勇気を与える機会であれば良いと思う。必要以上にメダルに拘った結果、却って本人の努力が無になるようでは何にもならない。関係者の再考をお願いしたい。
 「スポーツの世界に政治を持ちこむな!」と言う言葉には同感だ。私も韓国と朝鮮民主主義人民共和国の選手が「統一旗」の下行進したことにも感動した。

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