毎日新聞−2000年(平成12年)10月01日(日)

気  流

自分を見いだす哲学を必須科目   無職 山本 禧孝 72(大阪府羽曳野市)

 教育改革は制度・行政面からだけではなく、個人のレベルで考えてみる必要がある。
 私は17歳の時、敗戦に直面して国家のためにという価値観が崩壊し、生きる目標を失ってしまった。インフレと食糧不足の中で、誰もが自分の生活だけに懸命で、「気持ちを分かってほしい」という私の孤独を支えてくれたのは、家族と周りの人たちだった。
 現代は社会や家族関係も大きく変容したが、若者は自分深しの中で孤立感を深めているのではないか。携帯電話や電子メールの流行も若者風俗も「今、自分はどういう気持ちでいるのか。本当は何を求めているのか」を見いだせない姿なのではないだろうか。
 かく生きるべきだというモデルを、社会や国家が示してくれない現在、どうすれば生きる元気が出てくるのか。この際、自分を知り、自分と他人・社会との結びつきを考える技術である哲学を、ぜひ必須科目として教育改革で取り上げてもらいたい。

いっぽのコメント
 私は一人息子に「哲光(アキヒコ)」と名付けました。「自分の哲学を持った子になった欲しい」「他人に光を与えられる人になって欲しい」との願いからだ。
 人が生きていく上で“哲学”は必要だ。自分というもの、自然との関わり方、社会の中の自分、生きるということ、人間らしく生きるということ等々を学ばなければ自己を見失い、自分の存在さえ認められなくなってしまうからだ。

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慰め励まし−慈悲の輪が広がれば   事務員 仲田 征夫 55(栃木県西方町)

 藤山一郎の「長崎の鐘」が好きである。とりわけ、いかんともしがたい人生の悲しみを大きく受け止めるかのような「慰め励まし長崎の」というところがいい。
 人生には、制度や施策だけでは救えない、悲しいできごとがある。そんな渦の中にいる人に周りの者ができることは、慰めることと励ますことではなかろうか。
 「慈悲」という言葉がある。「慈」は励ますことで、積極的に相手にかかわる「動」の側面。「悲」は慰めることで、深刻な事態に打つ手もなく、ただ相手に寄り添い、ひたすら祈るだけの「静」の側面を意味するのだという。
 今のカウンセリングは、「悲」のかかわり方だろうか。
 さて、不登校、家庭内暴力、傷害事件を引き起こす少年やその家族も、制度や施策の充実だけでは救えないだろう。人間同士の慈悲の輪を広げていかない限り、社会に適応できない人間の増加は止められないと思う。

いっぽのコメント
 
私には“慈悲”という言葉は馴染みがない。ここでは「『慈』は励ますことで、積極的に相手に関わる『動』の側面。『悲』は慰めることで、深刻な事態に打つ手もなく、ただ相手に寄り添い、ひたすら祈るだけの『静』の側面を意味する」と書かれている。しかし、ある辞書には「“慈悲”は哀れみ、慈しむこと」と書かれている。「“哀れみ”はかわいそうに思うこと」とある。
 よく人は「同情はいらない!」と言う。しかし、この場合は“同情”ではなく“哀れみ”だと思う。私は“同情”はスタートだと思っている。始めは単なる“同情”であったとしても、相手を理解するきっかけにはなるし、いつまでも“同情”のままにしておいてはいけないと思う。しかし、“哀れみ”は相手への思いやりよりも、上から下へ与えるものの感が強い。私にこの言葉が馴染まない理由がここにある。だが、この人の言いたいことは理解できる。

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私は世間に無関心、酒宴は拷問…   臨床検査技師 西村  繁 38(長野市)

 17日本欄「遊びより勉強・塾が楽しい子もいる」は、全くその通りである。
 何事によらず我が国では、一つの見方・考え方ですべてを律し、そこから少しでも外れれば寄ってたかって、たたきつぶそうとする風潮が余りにも甚だしい。
 それにしても、本件や不登校のように、子供の場合は少しずつでも前述の傾向に変化が見られるようになったが、成人となるといまだしだ。
  私は世間の事物にほとんど関心がない。従って集団の一員としての行動が著しく苦痛で、酒宴などは拷問に等しいと感じるたちである。だが、周囲は容赦なく、事あるごとに非難を浴びせてくる。
  私は別に、世間一般が、話し上手で、飲んだり騒いだりに興じることを悪いとは言わない。しかし、世人のすべてがそうであるべきだと決め付け、それに合わねば呵責する、というのは明らかな思想統制であり、到底容認できない。数の暴力とは、正にこのことである。

いっぽのコメント
 こうした問題は「その人の性格だから仕方がない」とは言いたくない。はっきり言わせていただければ「その歳で世間に関心がないのは無責任だ」としか言いようがない。況してや「遊びより勉強・塾が楽しい子もいる」との意見を引き合いに出しても正当化を図れるものではないし、“思想統制”なんてレベルの話しでもないと思う。「歳と身体だけは大人になっても、心と頭が子どものまま」なのではないだろうか? 
 私達が“社会人”として生きている以上、「社会との関わりを抜きに、自分勝手に生きていくことは責任を果たしていない」ということです。このことは好き・嫌いの次元の問題ではない。好きであろうとなかろうと、しなければならないことは沢山ある。社会の中で生きている以上当り前のことです。
 あなたがどう考えようと、私も、又、この国で生きている誰もが好むと好まざるとに関わらず、社会のお世話になって生きて来たのです。私もこの国が合格点の国だとは思っていない。反感さえ持っている。しかし、他の国に住みたいとは思っていない。折角生まれた国なのだから、嫌なところは直し、少しでも皆が住みたいと思える国にしたいと思う。それが当り前だと思う。
 成人になって「世間に無関心」なんて言えるのは平和な証拠であり、“平和ボケ”の何ものでもない。問題はこの言葉にあるのではなく、何故こうした考えをもつに至ったかにあるのだと思う。それを明らかにしなければ何も解決しない。
 私の先輩にもアルコールが一切ダメな人がいた。しかし、彼はアルコ−ル抜きでも場を盛り上げ、雰囲気を楽しんでいた。無理強いすることは確かに悪い。しかし、お互いに歩みよる姿勢は大切だと思う。 

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